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私の母は、私を育てるにあたり、自分自身の育ちを冷静に考え直す、ということはしなかった。自分の母への感情を容認することよりも、私をとにかく「突き放して育てる」ことに執着した。母に言わせれば「放任主義で育てたかった」ということだ。母なりの、母性愛で。自分が感じたような窮屈さや閉塞感を抱かせないことが最良の母親の愛だと信じて。
今ならばその無謀さがわかる。放任主義というのは、根幹に強い愛情と信頼関係があってこそ成り立つ。その根っこを育てずにただ放り出すように距離を置くのは放任主義ではない。が、幼稚園に通う子供にそんな理論がわかるはずがない。
「お母さんは、なんでわたしとあんまり一緒にいてくれないんだろう?」年長組の親子遠足のとき、私と一緒にいる母親にそう思ったことを覚えている。普段あまり一緒にいたがらない人がなぜ今日は隣にいるのだろう?と。(親子遠足なんだから当たり前なんだけどね)そして、よくわからない違和感はずっと消えないままだった。お母さんって、なんだろう?同じクラスの女の子たちと話しても、明らかに違う気がした。当時の母は専業主婦だったし、私は弟と6歳はなれているからそのときは母親を独占できたはずだ。料理はとても上手な人だが、気が乗らないと作らない。私にとっての母の味は、マカロニグラタンやパプリカチキン、タンシチューや京都風の出汁巻き卵で、時代を考えたらかなり「ハイカラ」なメニューだろう。でも、それらはもちろんご馳走で来客やお正月や特別なイベントのときなどに私がおっかなびっくりお願いし「母の機嫌が良ければ」作ってもらえる程度だった。一度などクリームコロッケを作ろうとして失敗し、異常にヒステリックになったことがあり、その様子が幼心に物凄く怖くてそれ以降「**作って」とお願いすることにさらに気後れするようになっていった。洗濯や掃除はあまりは好きではないらしく、片付けることも苦手、だとしたら私が幼稚園にいる間や帰ってきてからの夕飯前後、私が眠っているときに母は何をしていたのだろう。家事労働というものは切れ間がなく大変な重労働だ、とは思うけれどそれはある程度ちゃんとやろうとしている人にとっての話だ。私の母には当てはまらない。いや、母なりにがんばっていたのだろうとは思うが、「お父さんはまったくなんにも手伝ってくれない」という不満を娘に言っていいほどにはやっていなかったと思う。
母は、働きに出たかったのだ。私が生まれてしばらくした頃、仕事に出たことがあったそうだが、当時は保育園などの施設も少なく、義母があからさまに働く母親を否定したことですぐに退職したと聞いた。母方の祖母は80歳以降も内職でそれなりに稼ぐ人で、母は「経済的自立」ということに非常に重きを置いていたので、義母のそんな否定を「所詮は成金に嫁いだ田舎者」と思ったらしい。ま、わからなくはないし、実際そうも言えるところもあるにはあるなと思うんだけれど、そんな家に嫁いだあなたの責任は?ってところは母は考えたくなかったらしい。
(私の父方の曾祖母は地元で有名な美人だったらしいが、華族の子息の子を身ごもった頃にその男性が渡仏してしまった。もともと身分違いもあり、帰国を待って結婚などと言うことはありえず、どうするか周囲が思案にふけっていたとき、曾祖母を見初めた商売人から「その状況でもいいから」と申し出をもらい、結婚した。商売はそこそこ繁盛し、お金には困らなかったようだが、祖父は血の繋がらない父にはあまり愛されなかったようだった。実の父親が帰国後にこっそり会いに来てくれたことが何度かあったらしいが、それも数えるほどで「自分は父親に大切にされている」と実感するには至らなかったらしい。祖父の母にとっても当然居心地がいい結婚だったはずもなく、祖父は微妙な大人たちの狭間で育った。ただ、お金だけはそこそこあったから、お座敷遊びやビリヤードだのの洒落た遊びに夢中になり、ぱっと見には「ちょっと粋な男」だった。祖母(母にとっての義母)は、田舎が嫌いで東京へ出たくてしかたがなかったときにお見合いでそんな「ぱっと見小粋」な祖父とそのお金に二つ返事で結婚を決めた。戦争中くらいまでは、商売が繁盛したおかげで潤沢にあった資産も戦争中には商売自体が大変になり、戦後のドル没収でほとんどの資産を失った。ハイカラや洒落、西洋好きが行き過ぎて資産のほとんどを米ドル紙幣で持っていたことが災いしたのだ。もしも、祖父と祖母がそれなりの良家で徹底的に厳しく躾られていたなら、そんな逆境にもへこたれず、むしろ夫婦仲を良くすることさえできたかもしれないが、経済的に困窮したことで夫婦の溝はさらに深まり、祖母は結核を患って10年以上も大嫌いな田舎で静養する羽目になった。その間も祖父は見舞いにも行かず(結核だから、ではなくそれ以前の問題)、持っていた土地を売って昔なじみの芸妓と遊んだりしていた。祖父が他界したあとで家にあった文書を祖母が整理していたら「別れに際しこの土地をやる」みたいな証書がいくつも出てきて「これだけの土地や権利があったら…」と腸が煮えくりかえり「死んだばかりなのにもういちど殺してやりたいと本気で思った」と私の父に笑って話したそうだ。笑えないっつうの、おばあちゃんってば)
どこの夫婦や家族にも、トラブルや問題のひとつやふたつあって当たり前、ないなんておかしい、くらいだろうけれど、それにしても「ちょっと並べただけでもすげぇめんどうくせぇ」家に嫁ぐにしては、私の母は夢見がちすぎたのじゃないか。32歳だって夢見がちな女なんて五万といる。母は、父にはもちろん義母にももっともっと大事に愛されたかったのではないのかな、と私は今思う。(つづく)
